そういや常温核融合ってどうなったんだ?とは思ったけれど事件にまで発展してるの?というまずは素朴な疑問。
世界を明るく照らす、人々を移動させる、温かい食事を作る、現代文明を支えるエネルギー。
このエネルギーを無限に生み出す方法はないのか?人類の長年の夢だった。
15世紀、レオナルドダヴィンチは水車を永久に動かす方法を模索した。
20世紀、ニコラ・テスラは大気中から無限にエネルギーが取り出せると主張。
だが、何一つ実現しなかった。
1989年、この夢に近づいたという男たちが現れた。
電気化学者のスタンレー・ポンズとマーティン・フライシュマンだ。
常温核融合ができたと主張した。
目から鱗の発見に科学者たちは熱狂。次々と追試で成功が報告された。
莫大な研究費とその先のキャリアを科学達は狙っていた。
しかし、7か月後、アメリカは調査の結果、根拠なしと結論付けた。
20世紀最大のスキャンダルはなぜ起きたのか?
1.常温核融合の衝撃
1989年3月23日、世界の科学界を揺るがす発表がアメリカ・ユタ大学で行われた。
スタンレー・ポンズとマーティン・フライシュマンだ。
試験管の中で常温で核融合を起こしたという。
無限に持続すると発表。
核融合とは2つの原子核が結びつき、別の原子核になる反応。
太陽の内部でとてつもないエネルギーを生み出しているのが核融合。
原子力は高レベル放射性廃棄物を出すが、核融合ははるかにすくない。
原料の水素もたやすく手に入る。
エネルギー問題を一気に快活する切り札に穴ると思われた。
これまでは科学者たちは1億度をつくりだし、地上に太陽を作ろうとしていた。
アメリカでは8000億円もの費用を使っていた。
そこに常温で安い装置で核融合を起こしたと
1943年、スタンレー・ポンズは生まれた。内気だがなんにでも熱中した。
特に化学実験に夢中になった。ミシガン大学の大学院に進学し、1975年には
サウサンプトン大学へ入学した。
そこで出会ったのはマーティン・フライシュマンだ。国際電気化学会の理事長であった。
1983年、ユタ大学で助教授になったポンズはフライシュマンを呼び、常温核融合の研究を始めた。
ジャーナリストのガリー・トーブスさんは、名の知られた科学者になり認められたいとポンズは思っていたと語る。
ポンズとフライシュマンが考えた方法は電気分解。
重水素を多く含んだ重水に電気を通し、+から酸素が、-から重水素が発生するが、-の電極に
パラジウムを使う。パラジウムの中に水素が吸収されていき、核融合が起きるのではと考えた。
ある日、パラジウムの1部が蒸発しているのを見つけた。
大量の熱が発生し、溶けたのではないか?
ポンズたちの好奇心をかきたてた。
マービン・ホーキンスは当時ユタ退学の大学院生で実験を手伝っていた。
ポンズは核反応が起きたと考えたという。
1988年、ポンズたちはアメリカエネルギー省に研究費を申請する。
原子核物理学者スティーブン・ジョーンズが審査した。彼は常温で核融合ができるという研究をしていたが
うまくいかなかった。そんなときにポンズたちからの申請書を受け取った。
同僚には、困った、利益がぶつかるかもしれない、と語っていた。
2か月後、ポンズたちは却下された。審査結果には
審査員の疑問に反論できるか?再検討するなら連絡をくれと書かれていた。
徹底的な文献調査をしているか疑問だ、特にスティーブン・ジョーンズなど、と最後にかかれていた。
スティーブン・ジョーンズが取材に応じた。別に彼らをライバル視していたわけではないと語る。
ポンズ達はなんども申請書を書き直し、
「私たちは審査員がスティーブン・ジョーンズ教授だと考えている」
とも書いた。研究内容を盗もうとしていると。
ジョーンズはずっと前から電気分解と重水を使った実験をしていた、申請書からヒントを得たわけで七位と語った。
その後ポンズたちはエネルギー省から審査員がジョーンズであると告げられる。
そのころ、ジョーンズは中性子を検出した。核融合が起こったことの証拠になる。
ポンズたちを招いてそのことを示した。そして共同実験を行い、連名で論文をださないかと。。。
何かしないといけない状況に追い込まれたポンズたち。逆襲が始まる。
共同実験を急遽キャンセルした。ポンズからジョーンズに電話がかかり、
大学院生が葬式に行くので準備ができないと伝えた。
ジョーンズが設置していた装置を見て数か月間実験をしていたとは思えないし、
自分たちの申請を見て実験をしたとしか思えない。
ユタ大学のチェイス・ピーターソン学長に相談した。ブリガムヤング大学との会談を設定した。
ピーターソンは国から莫大な研究費を得られるはずだと主張。その会談で
①論文を3月24日に同時投稿
②論文受理まで対外発表はしない
と約束した。
しかしその協定をユタ大学が4日で破った。
ポンズたちは論文を急いで書き、特許も申請した。
そして3月23日、記者会見が開かれた。同時投稿の1日前に、、、
マスコミは大々的に報道した。
ポンズとフライシュマンは一躍、時代の兆児になる。
2.追試に群がった科学者たち
記者会見で科学界は騒然。エドワードテラーも見込みがありそうだと語った。
ジョーンズも論文を研究者にばらまいた。
ポンズたちもどうように論文をばらまいた。
そうすると世界中の科学者たちは追試を始めた。
論文は急いで書いたので欠点だらけだったのと、特許がまだ認められていないのでチャンスだった。
・核融合の際、熱の発生があるか
・中性子やガンマ線の放出があるか
・トリチウムの生成があるか
がポイントとなる。
1989年4月1日、日本の研究者の追試(東京農工大学の小山昇教授が熱とガンマ線を確認)が出た。
研究業績がある方が発表されたので追試する価値があると思ったと小山氏は語る。
アメリカの研究機関も次々に追試に成功する。
ジョージアテックも中性子を観測したと発表した。
間違いなくレースだった、と語るジェームズ・マカフィー(ジョージアテック)。
誰よりも早く確認する、成功すれば民間企業から資金提供もくる、と思った。
思った通り殺到した。
テキサス農工大学のジョン・ボックリスがトリチウムを確認。大学院生ナイジェル・パッカムが
実験したが大量のトリチウムが観測された。
100以上の追試成功の報告があった。
ガリー・トーブス(科学ジャーナリスト)はゴールドラッシュのようだった、と語る。
アメリカ国家も動き出す。4月末に公聴会が開かれた。
招かれたのはポンズ・フライシュマン・ピーターソン学長。
全米で生中継された公聴会でピーターソン学長は25億円の助成金を要請した。
いずれ100億円くらは必要かもしれませんとも。
3.常温核融合 フィーバーの果てに
公聴会では論文の弱点があぶりだされた。指摘したのはCALTECのネイサン・ルイスだ。
ポンズたちの論文のある数値を疑問に思っていた。
過剰熱が1224、だが入力エネルギーの12.24倍を発したことを示している。
しかしどのような測定で出したのかおおもとのデータが論文にはなかった。
12.24は、計算値だと公聴会で答えた。仮定に基づくものだと、、、
ルイスは計算自体が間違いであることも見ぬいた。
要するにデータをねつ造したのだ。適当に実験を作り上げ、データを作った。
物理学者たちからも反論が続出。リチャード・ペトラッソ(MITのガンマ線のスペシャリスト)は
ガンマ線の検出図を見て、一部を切り取ったものだと気づいた。一部を切り取るということは
研究不正と見なされてもおかしくないと指摘した。
1985年5月、アメリカは調査を始めた。ポンズの研究室を視察し、データを全て用意するようにと指示した。
ウィリアム・ハパーさんが調査団に加わった。するとなぜそんなことを聞くのか、世紀の大発見だぞ、
なぜそんな細かいことを聞くのか?とポンズに言われた。
証拠は何もないのに研究資金を得るために証拠があるように振る舞う。
追試のほとんどもミスや思い込み、誤作動だったとわかった。
ジョージアテックのマカフィーも、検出器の誤作動だったと語った。
トリチウムを発見したパッカムも不正をしたと考えられた。
ジョーンズも再現実験で中性子は出なかった。
1989年11月の最終報告書では、証拠には説得力がないと結論する、と書かれていた。
多くの科学者たちはあまりにも軽率に盲信してしまった。
ポンズたちは自分たちは正しい、証明できていないだけだ、と考え主張を取り下げなかった。
ポンズとフライシュマンはアメリカから姿を消した。
4.常温核融合はいま
世間から忘れ去られた常温核融合。しかし可能性を信じる科学者が研究をつづけた。
2015年、アメリカ特許庁は初めて特許を認めた。重水素とナノサイズの加圧による過剰熱。
80年台にはなかったナノ粒子を使ってそのすき間に重水素を詰めて加圧する。
日本でもナノテクノロジーをつかって東北大学の岩村康弘教授が研究している。
入力エネルギー以上の熱を報告したと、、、化学反応では説明できないと語る。
ポンズとフライシュマンのその後は?
フランス 二―ス。アメリカを離れた2人は常温核融合の研究を続けていたが
1990年台半ばに手を引く。フライシュマンはパーキンソン病を患い死去、ポンズは行方不明。
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